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湯原温泉に伝わるお話

湯原温泉にもいろいろな歴史や伝説、民話などのお話があります。そのお話を年代は前後しますがご紹介いたします。

その一

湯山城の戦い

 

 宇喜多野一族、浮田平右エ門は湯山城にあって、其の頃作州にも豪勇を以つ其の人ありと知られた家臣の牧左馬之助、牧源之丞らを従えて城を守って居た。

「この里、まことに山紫水明、かじかの声を聞きながら、湯浴見出来るなど、まことに結構至極」

と、文武両道に秀でた戦国武将の左馬之助も、眼下の川岸に湧き出るいで湯にしばしば疲れをいやした。

 

当時の湯原の里は、旭川を境に東は宇喜多、西は毛利の勢力下にあった。東の湯山城に対し、西は藤森村に飯山城があって、毛利の武将杉原盛重がこれを守っていた。

 

 毛利勢は何とかして宇喜多を攻めて、作州の地を奪いわが勢力の下に置かんと絶えず其の機を窺(うかが)っていたが、天正7年(1579年)、遂に兵を起こして作州に攻め入った。

 飯山城の杉原盛重は、この時毛利の命に従って、浮田平右エ門の湯山城を攻略する為、軍兵五千を率いて向湯原の大沼山に陣所を構え、湯山城攻略の策を練った。

 

 然し浮田方は城を固く守って一向に動く気配が見えぬ。杉原の軍兵はしばしば川を距てた湯山城を見下す山頂に登り、城に立てこもる浮田勢に弓矢を討かけた。城中の武士たちも之に応じて矢を放った。然し双方とも矢は敵陣に及ばず、途中で絡み合って眼下の高田川の渕え落ち、渕は矢で埋まった。これより後、この渕を矢渕というようになった。

 

 さて寄せ手の大将、杉原盛重も、遂に湯山城攻略の策を立て、五月の或る日、折柄(おりから)の降り続く五月雨に高田川の水嵩(みずかさ)も増え、濁流滔々(とうとう)としているにもかかわらず、軍兵三千を率いてまだ、夜の明けぬうらに川を渡り、湯山城の外域を通り俄(にわか)に城を攻めたてた。

 これと知った浮田の軍勢も、すわ(さあ)とばかりに城を躍り出て、城外に於いて両軍入り乱れての大激戦となった。この戦の有様を城の本丸で眺めて居た浮田の副将、牧左馬之助、牧源之丞の二人は此の時とばかりに長柄の槍をひっ提げて城を駆け出て、杉原勢の中に躍り込み、得意の長槍を振って当たるを幸い遮二無二に敵を突き崩した。そうして、大音声張り上げて、「いざや、わが軍、盛り返せ、盛り返せ」

 と呼ばわりながら、尚も獅子奮迅の勢い以て敵に迫ったので、さすがの杉原勢も次第に斬り崩され、遂に川を退却して大沼の陣所え向かって逃げ走った。

 この時、牧左馬之助、牧源之丞両勇士は、濁流を渡り退却してゆく杉原軍を追いながら大音声を張り上げ、「いかにも見苦しきさまかな。毛利勢の中にかく申す牧左馬之助と勝負せん者はなきか。きたなし、各々方のその退けざまの何と見苦しき事ぞ」と叫んだ。

 其の時、逃げゆく毛利勢の中から一人の武者が引き返し、今し濁流を渡って川岸に立った左馬之助をはったと睨みつけ、

 

「憎らしきかな牧殿のその雑言、われこそ毛利方にて其の者ありと聞こえた九州は高橋三河守鑑種(あきたね)が後胤(こういん)、高橋長宗と申す者なり、いざ勝負を決せん」

 

 こうして向湯原の川原に於て、両豪龍虎の決斗が両軍鳴りをひそめて見守る中で行われた。 然し、高橋長宗、豪勇を以て知られた武士と雖も、未だ若年であり、百戦往来の強豪牧左馬之助には敵し得ず、遂に向湯原川原に散った。高橋を討って城に返った左馬之助はいかに戦国の世のならいとは言いながら、未だ年若き花の顔の武者を討たねばならなかった事に、しみじみ人の世の無情を感じたとゆう。

 

 それから幾年つきを経て、長宗の長子長則は、一族の没落に世の無情を感じ世を捨てて雲水の身となり、湯山城合戦の跡を尋ねて亡き父と家臣の冥福を祈る為、川岸に二基の宝筺印塔(ほうきょういんとう)を建てて供養した。

その2

湯原温泉縁起

 

 今から千年ばかりも昔のこと、一條天皇さまの御世の事だ。ここ、湯本(現:湯原温泉)の里に喜右エ門とゆう狩人が住んで居た。

 喜右エ門は齢が三十三、女房のお里は二十八、六才になる一人娘と三人で平穏に暮らして居た。

 或る年の霜月二十五日のこと、喜右エ門が箙(えびら)を背に弓を持って狩をしに山に入った。

生い茂って居る熊笹や藪を押し分けながら、あちらの山、こちらの谷と獲物を追って歩いて居ると、とある深い山の大きな峪(たに)の中え迷いこんだ。

 あたりは数百年も経ったとおもわれるような大木が空を覆っていて、山には馴れて居る喜右エ門も、少々心細くなった。その峪に一きわ大きな楓の木が一本あった。喜右エ門が何げなく其の楓の木を見上げると、高い木の股に胴回りが三尺ばかりもあろうかと思われる大蛇が、両の眼から怪しい光りを放ちながらじっと喜右エ門を見て居た。それを見た喜右エ門は恐ろしくて逃げようとしたが、あまりの恐ろしさに足が竦(すく)んで動けない。喜右エ門は、無我夢中で弓に矢をつがえ大蛇の目に向けて矢を放った。

 さすが弓の名人といわれるだけあって、矢は狙い違わず大蛇の片方の目を射抜いた。大蛇は目に矢が突き挿さったまますうっと姿を消した。

 ところが其の夜、空模様が俄(にわか)に変わって、雨、風が吹き荒れ大変な嵐が湯本の里を襲った。

 この思いがけぬ嵐に巻き込まれて喜右エ門の女房と娘は、荒れ狂う濁流に呑まれて命を落としてしまった。そして、それから間もなく喜右エ門も気が狂って、とうとう一家は死に絶えてしまった。

 

 それから百年ばかりも後の堀川の天皇さまの頃、川岸の岩の間の流れの中に、片目の大蛇が時折り水の中に体を沈めて跼(せくぐ)んで居るのを里人が見かけた。初めの頃は人々も不審に思いながらも恐ろしくて其の場所へは近づけなかったが、或る日、大蛇の出て居ない時を見て里人たちは、いつも大蛇の居た水の中え足を入れた。ところが、あたりの岩の間から温い湯が湧き出ているではないか。

 里人たちが其の岩を掘り起こすと熱い湯がどっと噴き出した。

 

 これが湯本の温泉のはじまりである。

 

その3

はんざけ大明神

 

 むかし、向湯原村に竜頭が渕という大きな渕があった。其の渕の底にはとても大きな大はんざけが棲んでおって、河原に放している牛や馬がその渕のほとりに行くと、底から浮き上がって来て牛や馬を尻尾で叩き倒して、渕の底え引きずりこんでは、餌食にしていた。

 田植えも済んだ或る日、向湯原村で一軒の家普請があった。村中の者が総出でわいわいがやがやと穏やかに手伝いをして、やっと一番最後の棟木を持ち上げて掛け終えた。「やれやれ、棟木う載せて貰うてからに、思わん大仕事をしてもろうた。さあさあ、みんな下りて一服して下さりませえ」言うて、その家のおやじが下から大声でわめいた。

 普請の上に居った者たちも、ぞろぞろとみんな下りて来て、筵(むしろ)の上で車座になって一杯やって居た。その時、向こうの街道から大きな声で何かわめく者が居る。

 「何じゃ、向こうの道で何だか大きな声でわめいとるなあ」村の者がよく見ると、竜頭の渕の上の街道で、六部(ろくぶ)らしい者が片手で渕をゆび指しながら普請場の方に向って大声をして居る。

 「村の衆よ、今此処の渕の底を大はんざけが出て這い廻りょうるが、お前方大勢居ってもこの大はんざけを討ち取るような元気のある者はおらんのか、男の子はおらんのか、意気地なしめ」

 と、わめいて居るのが聞こえた。それを聞いて村の者達は腹を立てたが、中でもその中に居た三井の彦四郎とゆう浪人者の伜(せがれ)は、大そう腹を立てて短刀を片手に渕の傍(かたわ)え走っていった。

 「おのれ、よくもほざいたな。男の子が居るか居らんか見せてやる」と大声に叫ぶや、綱を腰に巻きつけ短刀を片手に、若し俺が渕の底からこの網を引いたら直ちに引き上げよと村の者に言い残して、ざんぶとばかり渕にとびこんだ。

 彦四郎は渕の中で大はんざけに立ち向かったが、あっと思う間もなく一口で飲み込まれてしまった。飲み込まれた彦四郎は直ちにはんざけの腹を切り裂いて外に出ると、網ではんざけの胴を巻き合図の網をひいた。渕の辺で様子を見ていた村人達は、それっとばかりに網を引いた。

 彦四郎も岸に上がって力を合わせて大はんざけを引き上げた。渕の辺に引き揚げられて横たわった大はんざけは、長さ三丈六尺、胴の廻り一丈八尺まことに渕の主であった。

 この様子を街道で眺めて居た六部は、肝をつぶして一目散に街道を上

に向けて走りさった。立腹した彦四郎は渕を泳ぎ渡と、走って六部の後を追いかけた。

 そうして、とうとう熊井峠の山中で六部に追いつく。「汝、男子の仕業を見たか」 と、彦四郎は捉えた六部の首筋を押さえつけた。六部は震えながら両手を合わせ、「いや、わしが言い過ぎて悪かった。悪かった。こらえてつかあされ。これ、この通り謝る。命だけは助けてくだされ。」 と、打ち伏して許しを乞うたが、血気な彦四郎は許さばこそはんざけを切り裂いた短刀を振りかざし、掌を合わせて謝る六部を一突きにして刺殺した。

 六部を討った彦四郎が村に帰って見ると、村じゅうの者が大はんざけを引きづつて来て、彦四郎のいえの牛びきぢ吊り下げて居たが、余りの大きさに体の半分は入り口の外に横たわって居た。

 其の夜、彦四郎が寝て居ると、戸口の外で何かすすり泣きのような声が聞こえる。はてなと思って彦四郎が雨戸をそろっと開けて外を覗いて見たが何も居ない。それでも何処からともなく啜り泣きの声が聞こえて来る。

 彦四郎の家では、そのような事が毎晩のように続いた。そんな事が続いているうちに彦四郎の家の者たちがつぎつぎと病にたおれていった。そうして豪気な彦四郎も一人となって居たが、これも又、病に倒れ、彦四郎一家はとうとう死に絶えてしまった。

 彦四郎一家が死に絶えると、今度は村のうちにいろいろな災難が現れ出した。村人達は、この時はじめて、このような災難に合うのはあの大はんざけと六部の祟りにちがいないと思い出した。

 「なんと、こりゃあ、あの渕の主や六部う殺した祟りにちがいない。この侭(まま)放っておいちゃあ、村じゅうが死に絶えてしまうぞ」

 「ほんに、きょうといこっちゃ。渕の主ばあじゃない。六部までえ、やったじゃけえ、そいで彦四郎の家が真っ先じゃ」

 「なんと、渕の主や、六部の供養をしょうじゃあないか」 と言うことになった。 

 

 そいから竜頭の渕のほとりにある大岩の上に祠を建てて、はんざけ大明神として渕の主を祀った。

 また、六部の霊を鎮める為に、熊井峠の六部が討たれた所に供養塔を建てて霊を慰めた。

 

 こうしてむら人によって、渕の主や六部の供養を行うになってから向湯原村は、たたりの災難からのがれる事が出来た。

 

 このはんざけ大明神の由来により毎年八月八日盛大なはんざけ祭りが行われるようになった。

 

その4

櫃ケ山の桜木坊

 

 櫃ケ山の天狗桜木坊が、或る日松の木の上で羽を干しておった。そこえ伯耆大山の天狗大山坊が通りかかって、俺も一寸羽を干したいのでその松の木を貸せ、と言う。

 

 桜木坊がいやだと言うと、大山坊が一寸の間だけでええ、貸してくれたらお前が今度俺の山に来た時に羽の影になった処を全部遣(や)るという。

 それを聞いて桜木坊は大山坊に松の木を貸してやった。

 

 それから一緒に大山に行った桜木坊は、折りからの西日を背に、木の上から羽をいっぱいに広げり。そうしたところ、大山はみな桜木坊の羽の蔭になってしもうた。

 

 それで桜木坊は大山を全部貰うて大山の主になった。それでも年に一度、八月に桜木坊は櫃ケ山に戻って来る。その時には櫃ケ山の天狗松の上に白い霧のようなものがかかる。

 

 そいから又、桜木坊が櫃ケ山から伯耆の三徳山に行くのに、下長田の唐畑という処に足をふん張り、片方の足を伯耆の山にふん張ろうとした時、下長田の吉見という処の田の中に足跡がついた。

 それで、其処の二畝(ふたうね)ばかりには水が溜まって稲が出来ないようになった。と

 

その5

 

あかてぬぐい

 

 昔むかしのこと、表という家の先祖に、くらの介というめっぽう猟の好きな人が居て、暇さえあれば山に入って猟をして居た。

 或る年の秋のこと、稲刈りも終わってやれやれと寛いだくらの介は、其の日も古屋(ふるや)奥の奥山に猟に出かけた。

 

 ところが、どうしたわけか其の日にかぎって、兎(うさぎ)や鹿など獲ものに一つも出会わない。そのうち日も暮れかけて、あたりの山もぼつぼつ暮色になりはじめた。

 

 くらの介も猟をあきらめて山を下りた。それから途中の小屋まで帰りつくと、くらの介は「まあ、夜道い日ゃあ暮れんわい、一服していのう」 と、一人ごとを言い言い、小屋の中で火をたいてごろりと横になった。

 

 一日中の山歩きに疲れて、一寸の間うとうとっとして居ると、何だか小屋の上の方でがっさがっさ音がする。

 

 「はて、今頃何じゃろう。どうも獣の歩く足音たあ違うが」 と、不審に思うたくらの介が、むっくらと起きてそろっと小屋から外をのぞいて音のする方を見た。

 

 ところが十間ばかり向こうの山道を子供を背負った女房が下りるのが見えた。

 

 「さては近道、この山い妖怪が出るちゅう噂があるが、今頃女が一人歩く言やあ、こいつ妖怪にちがいない」

 

 くらの介はそう思うと、鉄砲に弾丸をこめ、火縄に火を点けて狙いを定めた。そうして、丁度の頃合いを見はからって、一発ぶっ放した。うす暗い中でも、くらの介には的った手応えがよくわかった。

 

そうしたらそれと一緒に、「あれっ、われ、今茅の葉で目を突きゃあせなんだか」という声がしたかと思うと、女房も子供の姿も、すうっと消えてしもうた。

 

 それから、くらの介はどうした事か、そのまま、小屋の中に寝込んでしもうた。

 

 翌くる朝、猟に出たまま、くらの介が戻って来ないので、何か変わったことがあったじゃあないかと、村の者が心配して山にさがしにいった。そうしていっつもいきつけの小屋まで行って見るところが、くらの介が小屋の中でぽかんとして居る。

 

 「おお、くらの介、此処い居ったか。一体どがあしたこっちゃ」 くらの介は大勢の村の衆を見ると、やっと気を取り戻したらしく、「あっこ」 と、言って、小屋の向こうを指さした。

 

 村の者がくらの介のゆびさした処に行って見ると、何とまあ、胴のまわりが斗樽(とだる)ほどもあるような大ぐちなわが、目を撃ち抜かれて、茅や笹の高ふろの中に死んでおった。

 

 そんなことで、くらの介が大蛇をうち殺してから後、古屋深山には、つぎつぎと妖怪変化が出だして、山道を通る者に、いろいろと悪さを仕掛け、村の者達を困らせた。

 

 甚ネ門が朝まだ暗いうちに起き出て、五市の草刈りに山に牛をこってり、こっとり歩かせながら山道を登って行って居た。丁度、五市の渡りにさしかかった時、牛が何におどろいたのか急に暴れて一目散にかけ出した。甚ネ門もあまり急な事に、どうした事かとあっけにとられて居ると、頭の上で、げらげら、げらげら笑う声がする。

 

 甚ネ門がその笑い声のする木の上を見上げると、真っ赤な褌(ふんどし)をした大入道が、高い木の上から長い手を伸ばして、牛の荷鞍をむしり取って、木の枝にひっ掛けて居た。それを見た甚ネ門は、びっくりすまい事か、腰を抜かして、其の場にへたへたっと、へたなってしまった。

 

 或る日のこと、木地挽の与五郎やんが、出来上がった木地物を背負うて、山の居小屋から、村の塗師屋まで売りに出た。

 

 木地ものの銭を貰うた与五郎やんは、塗師屋を出て、いつものように隣の茶屋によって腰かけ酒をいっ杯やりながら、よい機嫌になって、世間ばなしに時をすごした。

 

 「やれやれ、酒ばあ飲んで、ええ機嫌になって、腰う据えとっちゃあいけまい。こがあしょうっちゃあ、日が暮れるようになるけえ、ええ加減の頃にゃあ腰ううけにゃあいけん」 

 

 言うて、言い言い茶屋を出た与五郎やんは、一杯きげんで、たんわり、たんわり山道う歩きながら、畑ん谷ぐちまでえ戻った。

 

 その時うしろから「よごろうやん、よごろうやん」 と叫ぶ声がする。はて、誰じゃろうかなあと思うて、与五郎やんが後をふり向いてみると道の上の藪の中から、大きな鍋蓋のような顔が覗いてゆらゆらとしとる。びっくり仰天した与五郎やんは、酒の酔いもいっぺんにさめて、こけもくれに山道を走った。それでも、その妖怪は、「よごろうやん、よごろうやん」と言い言い後をついて来る。

 

 与五郎やんが無我夢中で、大蛇の殺された処まで走って戻ると、それまで「よごろうやんよごろうやん」と後から叫んで居た声がふっと聞こえなくなった。与五郎やんが怖わごわ後を振り向いて見ると、あの大きな鍋ぶたのような顔の妖怪は何処に行ったか、消えて居なくなって居た。

 

 深山の奥からは、「あかてぬぐい」「こてぬぐい」という化け物や、あだ山からは「よごろうやん」とゆう妖怪が出て、山道を通る者に悪さをしたり、嚇(おど)したりするので村のものも山子達も恐ろしくて山仕事に行けなくなった。

 

 「なんと、こいじゃあ、みんな山い仕事い行けんが、何とか妖怪を封じ込める事を考えにゃあいけまいじゃあないか」 と、村の者達も騒ぎ出した。

 

 そうして、とうとう村中の総寄り合いを開いて、妖怪封じ込めの評議をすることとなった。然し相手は妖怪変化の類である。討ち取ってもまた、後でどんな祟りがあるか分からぬ。なかなか話がまとまらない。其の時、坂という家の松蔵どんが言い出した。

 

 「なんと、こうなったら神仏の力ぁ頼むより外にゃあ手があるまい。幸いあの谷にゃあええ滝がある。あの滝いお不動様をお祀りして、法印を招んで、護摩でも焚いて、妖怪封じの御祈祷でもして貰うて見ゅうじゃあないか、ここでじげ中の話がまとまりさいすりゃあ儂(わし)が成田山に参詣して、不動様の分霊を戴いて来る」

 

 「だだ、そりゃあほんに妙案じゃ。こりゃあほんに松っつあんが云わんすように、不動尊を勧請して、その霊力いおすがりするんが一番ええかも知れん」

 「まあ、そいでも、成田山までえ行って来る言やあ、大変なこっちゃが、松っつあん、ほんに世話あして呉れんさるかな」

 

 「いいやあ、なに儂も言い出したからにゃあ、何ぼう遠い処だろうが行って来る」

 

 「ほんなあ、なんと、松っつあんが、そがあ云おくれりゃあ、まあ、ほんに、大変なこっちゃが、分霊迎えの大役う世話いなろうじゃあないか」 と云うことになった。

 

 さて、坂の松っつあんが、成田さんへ出ている間に、村中の者が滝の処に集まって、分霊を祀る為の、こもり殿を建立する作業やら、石工を招いて滝のほとりの崖に不動明王尊像を刻む作業やら、皆それぞれ仕事にはげんだ。それも村の者達ばかりではない、鉄山炭を焼く他国者の山子達も、それぞれ分相応に手伝う。

 

 篭り殿も建ち終り、崖に刻まれた不動明王もきれいにさい色され、分霊迎えの準備が全部終わったところへ、松っつあんが成田さんの旅から帰って来た。いよいよ、準備万端整った滝に、不動尊の分霊を勧請する日となった。

 

 修法は、近郷近在に名の響いた山田の法印さんが迎えられた。其の日、村中の者が、てんでに数本づつの護摩木を担いで滝に集まった。

 そのような村はじまって以来の賑やかな村人たちの集まりの中で、この滝の辺に不動尊の分霊が勧請され、滝壺のほとりでは護摩が焚かれ、妖怪調伏の加持祈祷が行われた。

 

 こうして、この滝に成田不動尊が勧請された。そうしてそれ以来、村人たちを悩ませた「あかてぬぐい」や「こてぬぐい」それから「よごろうやん」など、いろいろな妖怪変化は、ばったりと現れなくなった。

 

 今に伝わる不動尊と、なるめの不動さま、はこのようにして此処に祀られた。

 

 尚、この不動滝の上流に、「あかてぬぐい」「こてぬぐい」という地名の山がある。この地に妖怪、あかてぬぐい、こてぬぐいが棲んで居たのである。

 

 また、くらの介が、大ぐちなわを退治した山を今も「くらの介」という。

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